昭和52年03月01日 朝の御理解



 御理解 第29節
 「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」

 ここでは決定的に梅の花の信心をせよと、こう仰っておられる。梅の花の信心は苦労をしておるというふうに言っておられます。信心で言う苦労とはどういう苦労を言うのであろう。信心でいう苦労と、なかなかあの人は苦労人だと、まあ一般に申します、家庭が貧困で苦労をする、商売不振で難儀をする。又は病気で苦しむ。人間関係で難儀をする。まぁそういう様々な難儀な中から神様へ心を向けて、そこからおかげを頂きたいというて、まぁ一生懸命信心をする。
 そういう、なら苦労とか修行を通して、あのう信心をする。だからそれがそのまま、まぁ修行にならんというわけではなかろうけれども、その、そういう苦労は信心の苦労じゃないです。信心の苦労というのは、もうどこまでも信心の苦労です。例えば、なら私が、北京から引き揚げて帰ってまいりまして、まぁ様々な、これ以上の苦労はなかろうと言う様な苦労をさせてもらいました。けれどもそんなら、その苦労、その苦労が私はおかげを頂いたんじゃないと思うです。
 その苦労を通して私が今まで開けなかった心が開けてきた、そういう開けてきた信心を本気で行じた。その、それを行じていく、その過程が、苦労なんです、それが信心の苦労なんです。私は今日はここんとこをほんとにこう、例えばね、色んな様々な、皆さんが持っておる難儀というものを、通して神様に一生懸命おすがりをするということが信心の難儀のように思うておる。それはやはり難儀は難儀です。
 だから一心におすがりしておかげを頂いてもです、それは、その難儀から解放された、おかげを頂いたということに過ぎんのです。それはたいした力にはならんです。自分の心が開けてきた、その例えて言うならば私が、もうあらゆる信心をさせてもらい、修行もさせて頂いて、そういう修行では、もうおかげにはならなかった。そこでなら最後に、取り組ませて頂いたのが「私の上におきてくる様々な難儀な問題を、どういう問題であっても、それを合掌して受けていきます」と言う様な修行をさしてもろうた。
 そういう修行をさせて頂いておるうちに、それが真実(まこと)の道への過程であったと気付かせてもらった。だからその、その修行が信心の修行であって、そん時に苦労したことが信心の修行じゃないということです。例えて申しますとね、昨日この頃から学院からこちらへ3名の修行生が合楽に15日間修行に来ておりました。それが3人お礼の手紙がきておりますから、読んでみます。
 『教会実習では、親先生はじめ教会家族の方々に大変お世話、お手数をお掛け致しまして、なんとお礼を申上げてよいのか、合楽教会での短期間の実習ではありましたけれども、本当に御教えの行じ方、それに習い、合楽理念の素晴らしさ尊さ、神との親近感が生れてきて、私でも御用にお引き立て下さるとの、お道の教師たらしめられた自覚と、そこには神をしっかり目指せて頂く。
 頂いていけば、私のような者でも、一歩一歩進ませて頂くなれば、なしえぬものはないと思われました事が、私にとって、どれだけの喜びであったか、書くに足りません。親先生のすさまじいまでの、私等学院生に、期待されておられるものを感ぜずにはおられぬ実習であり、親先生の「一切が神愛の中である」とのお言葉が心の奥に、今もはっきりと、思い出されます。
 合楽教会で御理解くださる教祖様の御教えに、今までのような浅く広くでなく、御教えを掘り下げに掘り下げた上に、よく深く素直な心で、御教えの有り難さと共に合楽で言われます、全てが神愛と受けさせて頂くとの、いつもそこには喜びに、そして限りないものを求める心とがある限りお道の御用にお引き立て下さるのでありましょうと、教会を後にして学院での生活に行じています。
 学院に帰らして頂いて、学院の先生方との懇談の時に、「実習の親先生をどう感じられましたか」という質問に対して、私は「合楽で教祖様を見た思いで、教会外実習を送らして頂きました。」と言ってしまいましたことに後で考えて、私の胸の内にしまっておけばよかったと、自分勝手に私だけが、そう思うことに対して、他の人に受けるとの、どんなであろうと。
 学院の先生方には合楽教と言われる方々が多い、多い中で等々、少し言葉を選ぶべきではなかったかと、親先生には何とお詫びしてよいか。などと考えさせてもらいました。』大体、分かったでしょうか。
 『拝啓、親先生には日々お祈り添えを頂きまして、有難く御礼を申上げます。学院に帰らして頂いて、御霊地の風も体に突き刺さるような寒さで、合楽の方も、とても寒いことと存じます。親先生、諸先生、また修行生の方々には、修行期間中色々とお世話になりましてどうも有り難うございました。毎日毎日、親先生の御理解、その中に出ておる合楽理念。今まで自分の気づかなかったことを勉強させて頂き、この合楽で学んだことをこれから自分の信心修行の土台にしてまいりたいと思います。
 合楽教会の広前の信心の熱気の中に、また親先生の熱い心の中に、少年少女会の幼い、小さい子供から、あらゆる信者さん方がとけこんでいき、神様に向かわれているのには、どうも心を打たれ、これからの教会を創っていく私にはとても勉強になりました。そして信者さんの一人一人が一体となって親先生を心の底から頂かれている。これが開教十周年記念大祭の現れ、願いとなっているのだと思います。
 合楽理念。有り難う、楽しゅう頂ける絶対の道。天地日月の心。神の心を心とするあらゆる問題、難儀を神愛と受け取らせて頂く。また全ての物に御の字をつけて神様の御物として頂く。表行よりは心行をせよ。なそうと思えば子供でもなせることをおろそかにしている。桜の花の信心より梅の花の信心をせよ。おかげは和賀心にあり。まず自分自身が助かっていかねばならない。真の信心、修行、御用。信者の中の信者。
 又はその中の信者。捨てて捨てて捨て切って、死んで死んで死に切って、神愛に生きよ。とまだ幾多のことを教えて頂いて、自分なりに分からして頂いて、皆様が色々とお教え下さったのに、こちらの受け物が悪くて相済まないばかりでございます。これからは「信心は親孝行である」と言われる親先生の御教えを心の底から頂いていき、「信心辛抱梅の花」という姿勢を持って、これからのお道の教師を目指したいと思います。
 変な手紙になりましたが、この合楽で頂いたことを神様に自分の信心姿勢を向けさせて頂きたいと思います。これからの合楽教会の御比礼をお願いさせて頂き、また合楽教会にお参りさせて頂きたいと思います。卒業してお道の教師にならせて頂いても、お繰り合わせを頂いて毎月の合楽教会の神愛会には毎月出席させて頂きたいと思っております。乱文になりましたが、御礼の言葉にかえさせて頂きます。
 諸先生方、また修行生の先生方によろしくお伝えください。どうも色々と有り難うございました。』西浜みつお先生が書いておられます。もう一ちょありますけども、読みにくいから、これは。みんな同じ様な事です。あの信心の苦労というのはね、こういうことなんです。私は今日はここの所を分からせて頂いたんです。
 みんなが難儀をしておるでしょう、困ったことがあるでしょう、お願いをしなければならないから一生懸命参ってくるでしょう。そして、ならそれで水をかぶったり、断食したりしてお願いをすると言った様な事は、絶対信心の苦労じゃないです。信心の苦労というのは、今二人の学院生の例をとって申しましたように、合楽で頂いておる教えを、これを行じてさえいけばおかげが頂ける。
 これなら私もお道の教師として御用に御引き回しが頂けると確信が持てた。そして、これをまた行ずることが信心の苦労なんです。私は今日はね、ほんとにそこのところを分からせて頂きました。信心の苦労とは、ただ一生懸命、成程家業の行も家業の行です。一生懸命苦労しておる、その苦労のおかげで信心が分かるのです。昨日の御理解のように、痛ければ痛とうございますと、けれどもおかげで信心が出来ますと言うて、有り難いというお礼を言うていけと言った様な、お話を昨日頂きましたが。
 信心の苦労というのは、自分が今、苦労しておるということが信心の、言うならば、苦労にはならないということ。それは、その入り口ではありましょう。 けれども信心の苦労とは、今、学院生が合楽の信心を、言わば頂き切ってしまった、もう頂いたと、これを行けば間違いがないと、これを今から行じていきます、その行じていくことが、信心の苦労なんです。
 昨日私はあの、永瀬さん所の宅祭り、それからそれに引き続いて、あちらのお父さんが、ちょうど昨日がお国替えの日でございますから、20年ですかの式年祭と合わせて奉仕させて頂きましたが、ほんとに有り難い、それこそ盛大なお祭りでございました。霊様へ、あの、ご挨拶させて頂いておりましたら、さんずい辺に立という字を頂いたんです。これは「泣」ということになります。泣という字ですね。というのはどういうことかというと、「さんずい」ということは自然ということ。
 例えて、まあ申しますとです、霊様は、言うならば暗い所におられた、言うならば這いも立ちもしきらんような難儀な常態であったと、こういたしましょうか。その私がです、子供達の信心によって、おかげでです、20年経たせて頂いた今日は、どうやらおかげで一人歩きができるようになりました。「自然、さんずい」とはいつの間にかという意味。「立」ということは、いつのまにか一人歩きができるようになりました。
 それこそ、泣くまいと思うても、有り難うして、有り難うして泣かずにはおられません。というのが御理解でした。だからそういうおかげを頂いていくということが、言うならば、力とかじゃぁない、子供の、言わば暗い所から子供に光を受けて、そしてなら、一人歩きがでけるようになったと言う事が、あのうではない。神様の方で頂いたことは、あの、ゴボウです。ゴボウにこう芽が出ますよね、こんなに。あのゴボウの芽とうやつは、絶対食べられません、毒になる。
 ですがあの芽が出てくると、そしたらゴボウの方が、すがむけてくるでしょうが。ここではゴボウのお知らせというのは、長く苦労しておるから、どういう御用にでも使うて頂けれる。そういう御理解を頂いております。苦労を長うしておる、長う苦労しておる。だから、なら長う苦労しておるだけではいけないということですよ、皆さん。いつかおかげ頂かこじゃいかんです。
 何年たっても何年たっても、やはり難儀が絶えない。ならそういう難儀は、なら修行として神様が受けておってくださるかというと、なるほど受けておってくださっても、しかし信心の苦労ではない。信心の苦労というのはどこまでも、なら教えを頂いて教えを行ずる。なら私が二十数年前に、おきてくる一切の事柄を、御事柄として受け、成り行きを尊び大切にしてきたという、そのことが信心の苦労なんです。
 それが信心の修行なんです。このへんのところを、今日は皆さんはっきりと分かって頂きたいと思います。そういう意味合いで純粋にです、合楽のおかげの、御比礼の元がどこにあるかということを、15日間で一生懸命勉強した。そして合楽の先生が言うように、この合楽理念に基づいて修行をしていくならば、絶対の道が開けるぞということを、実際を見て聞いて、そういう確信が持てれるようになった。
 これを行じていく以外にはない、腹が決まった。そこから本当の意味においての信心の苦労が始まる。信心の苦労というのは、信心の修行という意味です。そういう修行でなからなければ、いわば梅の花が咲いたり、うぐいすが来てとまったり、または、梅干ともなって、いつまでおいても悪くならん、徳になると言う様な、おかげにはならないと言う事で御座います。
   どうぞ。